自分はいらないと思っているけど、知り合いはめちゃくちゃ欲しがる物がある。
① 知り合いにあげる。
② あげない。
私はあげちゃうと思います。
自分が持っていてもそれは何の価値も無いです。対して、知り合いにとってはそれを貰えたら幸せです。
この幸福を単純に計算してみると以下のようになります。
【あげた後】1 = 0(自分の幸福)+1(知り合いの幸福)
あげたほうが全体の幸福が大きくなりました。じゃあ、あげたほうが善いよね。
っていう結論です。
この考え方自体には同意してくれる人は多いと思います。まぁ、中には
他人が幸せになるなんて許せないからあげない。
という人もいるかもしれませんが。
実はこの全体の幸福を考えるのは「功利主義」的な考え方です。じゃあ、この場面であげるって選択するということは、自分も功利主義なのかな、と思っていましたがどうやら違ったみたいです。
功利主義
功利主義(Utilitarianism)とは
功利主義は、以下の4つの特徴からなる考え方です。
・幸福主義
・公平性
・最大多数の最大幸福
行為を判断する際に、経緯や動機ではなく結果を重視し(帰結主義)、その結果として幸福を得ることが重要で(幸福主義)、それを自分や自分にとって大切な人を含め全ての人を区別しない(公平性)、という考え方です。
そして、一番重要な考え方として、行為の結果、多くの人が幸福を得られてその幸福の総和が最大になる行為(最大多数の最大幸福)が正しい行為であると考えます。
今回の「あげたほうが善いよね」というケースは、この「最大多数の最大幸福」を目指した行為に当てはまりそうです。でも、本当にそうなのか。
トロッコ問題。どこかの誰か。
5人を助けるために1人を犠牲にするべきか。よく聞くやつです。
このままでは、前方で作業中の5人が轢き殺されてしまう。線路を切り替えれば5人は助かりそうだが、もう一方の線路でも1人が作業中だ。あなたはたまたま線路の切替機の前にいる。どちらの選択を取るか。① そのまま、5人を見殺しにする
② 線路を切り替え、1人を犠牲にして5人を助ける
功利主義的には1人を犠牲にして5人を助けるべきです。
でも実際にこの場面に遭遇したときに線路を切り替えるかというと、できない気がします。
だって、5人が死ぬのは「トロッコの故障のせい」だけど1人が死ぬのは「私のせい」になるから。トロッコのせいで人が死んだのであれば、その責任はトロッコの管理責任者のせいになるけど、線路を切り替えて死んだのであれば、それは「私のせい」であって殺人として訴えられる可能性もあります。
たとえ多くの人を助けられるからといって、「人を殺す」という選択はできないと思います。
トロッコ問題を大切な人で考える
じゃあ、以下のような状況の場合どうするか。
このままでは、前方で作業中の1人が轢き殺されてしまう。線路を切り替えれば1人は助かりそうだが、もう一方の線路でも5人が作業中だ。なんと前方の1人は、あなたの大切な人であった。
もう一方の線路の5人は、あなたに嫌がらせばかりする嫌いな人達であった。あなたはたまたま線路の切替機の前にいる。どちらの選択を取るか。① そのまま、1人を見殺しにする
② 線路を切り替え、5人を犠牲にして1人を助ける
功利主義的には1人を犠牲にして5人を助けるべきです。
でも実際にこの場面に遭遇したときに、そのまま1人を見殺しにするかというと、できない気がします。
さっきと逆のことを言っているようですが、状況が違いますもん。
嫌いな奴の命と、大切な人の命を天秤に掛けたとして、たとえ5人であろうとも大切な人の命を取ってしまうだろうと思います。
自分の命を差し出せるか
くどいですが、以下のようなケースではどうか。
5人の臓器不全の患者がいる。あなたの臓器を提供すれば5人は助かるが、その代わりあなたは死んでしまう。
① 5人を見殺しにする。
② 自分を犠牲にして、5人を助ける。
でも、私は自分の臓器を差し出すなんて絶対無理です。だって、自分が死んじゃうんですよ!?
功利の怪物
ある科学者が普通の人よりも物事から功利を引き出せる存在を作り出したとしよう。私たちはケーキを食べれば、一定の幸せを感じるだろう。
しかし、功利の怪物はその1,000倍の幸せを感じることができる。もしケーキが1つしかなかったとしたら、最大の幸福を得るためにそれを功利の怪物に与えるべきだ。ケーキが2つであっても、2つとも与えるべきだ。功利の怪物が一般人よりも多くの幸福を得ている限り、功利主義では大多数の人々を不幸にすることになる。
それでも世界全体で見た場合の幸せの総量は最大のものなのだ。
お断りします!!
そんな怪物にケーキをくれてやるぐらいなら、自分で食べるわ!
功利主義なんて無理
公平性という無理難題
功利主義の特徴の1つ「公平性」、たぶんこれが1番直感的に難しくて、自分も含めた他人の価値を公平に見るというのに無理があるのだと思います。
生物は「自己保存」という自己の生命を保持・発展させるという本能がありますから、人が何かを判断する際に「自分」と「他人」の価値は本能的に区別されます。そのため、実際の判断では「公平」な判断ではなくなるのだと思います。
ただし、人は社会的な生き物ですから、「本能的」な要因だけでなく「社会的」な要因からも判断します。そのために、自分の利益に反する判断をする場合もあります。
功利主義じゃなければ何主義なのか
功利主義に対するのは、以下の2つです。
・利他主義
自分の幸福の価値と他人の幸福の価値をどう見るか、という点で異なる考え方です。
違いを極端に表すと、以下のようになります。
功利主義 | 利己主義 | 利他主義 | |
自分の幸福の価値 | 1 | 2 | 0 |
他人の幸福の価値 | 1 | 0 | 2 |
あらためて、功利主義(Utilitarianism)とは
自己と他人を区別せず、最大多数の利益を重視する考え方です。公平?
利己主義(Egoism)とは
自己の利益を重視し、他者の利益を軽視、無視する考え方です。自己中。
利他主義(Altruism)とは
自己の利益よりも、他社の利益を重視する考え方です。奉仕の心。
自分は何主義にあたるのだろう
消去法で考えます。
先ほど功利主義ではないことがわかったので、利己主義か利他主義のどちらかに当てはまりそうだ。では、どちらか。
物事を考えるときは、極端でシンプルな例で考えるとわかりやすい。
宝くじで1億円当選した。
① 自分で使おう。(利己主義)
② 恵まれない子供たちのために寄付しよう。(利他主義)
うん、たぶん私は利己主義だ。
まぁビルゲイツだったら、寄付するんだろうなぁ。
利己主義
さて、利己主義的な考え方で「あげたほうが善いよね」というケースを考えてみます。
最初に行った計算を利己主義的な立場で再計算してみます。
計算する際に、以下の係数を掛ければ立場の違いを区別できそうです。
功利主義 | 利己主義 | 利他主義 | |
自分の幸福の価値 | 1 | 2 | 0 |
他人の幸福の価値 | 1 | 0 | 2 |
【あげる前】0= 0(自分の幸福)×1+0(知り合いの幸福)×1
【あげた後】1= 0(自分の幸福)×1+1(知り合いの幸福)×1
【あげる前】0= 0(自分の幸福)×2+0(知り合いの幸福)×0
【あげた後】0= 0(自分の幸福)×2+1(知り合いの幸福)×0
利己主義の場合は、他人の幸福は無視されるので、あげてもあげなくてもどちらでもよいということになっちゃいました。でも、じゃあなんであげると判断したのだろうか。
利己主義的な計算
実際は単純な計算ではなくて、色々な計算が入って判断してるんだろうと思います。
・「いらない物を持っている=邪魔な物があってちょっと不幸」
⇒ いらないものを処分できて、マイナスから0になるのであげちゃう
・「誰かが喜ぶのは、自分も嬉しい」
⇒ 自分も幸福になるので、0からプラスになるのであげちゃう
・「ここで恩を売っておけば、どこかで恩を返してくれるかも」
⇒ 将来プラスになることを見据え、0からプラスになるのであげちゃう
最終的には、自分にとってプラスかどうか、というのを色々と計算して判断しているのだと思います。
これでつじつまが合いそうだ。
利己主義的な慣用句
功利主義的な印象を受ける言葉でも、実は利己主義的な言葉だったりします。利己主義というと悪く思われがちですが、一般的な考え方なのかもしれません。
情けは人の為ならず
正しい意味は「人に情けを掛けておくと、巡り巡って結局は自分のためになる」です。
ここで恩を売っとけ的な、利己主義的な言葉です。
困った時はお互い様
以前助けてくれたので、今回はあなたが困っているので私が助けましょう。もしくは、今回は私が助けるので今度私が困った時は助けてくださいね。という、感じの言葉です。
まとめ
「利己主義は悪か」とか、まだ色々と考えたいことがあるけど長くなったのでいったん区切ろうと思います。
私は利己主義のようだ
功利主義は「公平性」のもと自分も含めて平等に判断しますが、私「個人」が判断するうえでは自分自身の幸福の価値が大きく「公平」な判断はできない。すなわち、自己の幸福を追求する利己主義であると結論づけました。
功利主義と利己主義
利己主義は、自己の幸福を最大化するという戦略ですが、これが「個人」の場合には自分の幸福が最大化する、と言い換えることができます。ですが、これを個人ではなく組織などの「集団」に当てはめると、「集団」の幸福を最大化する戦略になります。「集団」は個人の集合となりますので、「集団」の幸福は「最大多数の最大幸福」と近いものになると考えられるかもしれません。
「利己主義」と「功利主義」は目線が違うだけで、根本は同じなのかもしれません。
利己主義の同意できない点
功利主義はトロッコ問題だとか功利の怪物だとか、色々と批判される考え方ですが、社会的には正義のように思えます。
ただし、やはり「公平性」という点においては、「集団」に当てはめたときであっても同意できない考え方ではあります。やはり、人は全く平等ではないと思うからです。
未来ある1人の子供を救うために、明日死ぬかもしれない5人の老人を犠牲にする。という選択は「最大多数の最大幸福」になるんじゃなかろうか。
さいごに
結局のところ、個人である限り「利己主義」的な考え方は切り離すことはできないと思います。だからと言って、完全に自己中心的な考え方ばかりになってしまうと、殺人や盗みなども横行してしまうことになります。
それを防ぐために、社会は「法」によって統治され、殺人や盗みなどをすること自体が不利益になるようにして、殺人や盗みをすること自体が利己主義的に善くない選択となるようになっています。
おそらく大多数の人間は「利己的」に行動しているはずです。「利己的」であることは悪いことではなく、当然であると言えると思います。「利己的」な自分を受け入れて、自分の幸せを求めていきたいと思います。
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