我々の間には、チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん。
有るとすればスタンドプレーから生じる、チームワークだけだ。出展:攻殻機動隊 S.A.C. episode 5 マネキドリは謡う DECOY
攻殻機動隊に登場する私の一番好きな台詞です。これは本編の17:15頃の荒巻のセリフです。
(少佐)課長 私はナナオの捜査から外れるわ
それから パズとサイトーをこっちに回して
(荒巻)どうするつもりだ
(少佐)警視総監の護衛に就く。課長の推理当ってると思うけど
どうしても 1つだけピースがはまってない気がするの
そのために警視総監に張り付く
そうしろってささやくのよ。わたしのゴーストが・・・
(荒巻)うむ・・・よかろう。
我々の間には、チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん。
有るとすればスタンドプレーから生じる、チームワークだけだ
(少佐)行くわ
サイトーとパズの件よろしく
論理的な根拠は無いが確信めいた何かを感じた少佐が、独自の判断で動くことを荒巻に宣言。それを受け入れた荒巻が少佐に放った言葉です。
信頼している部下の判断を信じ任せるという場面。
目的に対して、個々のメンバーがそれぞれ己が最善だと思う行動を取り、それが結果的に目的達成に対しての最善なチームワークとなる。公安9課という荒巻が集めた実力のあるプロフェッショナル集団だからこその言葉だと思います。
最高にかっこいい・・・こういう現場で仕事をしたい。たぶん、最高に大変なんだろうけど。
しかし、これは実際の現場ではなかなか難しいことです。IT業界の現場では、多くの場合、プロフェッショナルなメンバーばかりということはありません。寄せ集めの集団となることがほとんどだからです。
経験の少ない若手。頭数のために短期間で手配された専門外の技術者。プロフェッショナル集団とは言えないチームでプロジェクトを進行することになります。そうなってくると、個々の判断に任せていては非効率だったり頓珍漢なアプローチが横行することは明白です。そのため、プロジェクトマネージャーとプロジェクトリーダーがメンバーを管理・取りまとめることになります。
しかし、こういったトップダウン的な組織には限界があります。そもそも1人の人間で把握し、考慮できることには限界があります。リーダーはプロジェクトの全体像は把握できても、どのフォルダにどんなファイルが入っているか、ソースコードの何行目にどのようなコードが記載されているかまでは把握できません。
現場の人間のほうが適切な判断が可能な場面のほうが多いということです。それぞれが主体的に考えて判断したほうが、考慮できるデータソースが多くなるのは当然なことだと思います。
スティーブン・R・コヴィー著の「7つの習慣」の習慣の1つにも「主体的である」とあります。主体的であることとは「人間として自分の人生に対して自ら選択し、自ら責任をとるということ」と定義しています。
個々のメンバーが主体的に行動できれば、指示を遂行するだけのチームプレーから、目的に向かい時には各々が責任を持って判断し行動するチームワークへと昇華できるということでしょう。そのためには、責任を委譲する判断をできるリーダーの存在も必要ということです。
ちなみにタイトルの「マネキドリは謡う」とは何なのか。攻殻機動隊の各話のタイトルは映画のタイトルをもじっているという話があるようですが。「マネキドリ」というキーワードでググっても攻殻機動隊の本話しかヒットしませんでした。
ひとつ似たようなタイトルを目にしたことがありました。「ねじまき鳥クロニクル」村上春樹氏の著です。
この本のテーマのひとつに「『根源的な悪』との対決」があるそうです。そして、この作品における「根源的な悪」とは「ねじ緩め鳥」であり、人々の「集合的無意識」のねじを緩め、憎悪や悪意等の負の感情を増幅・共振させることによって「悪」をなそうとする人間のことだそうです。その対をなすのが「ねじまき鳥」であり「ねじ緩め鳥」によって、緩められた世界のねじを巻いて、世界に秩序を取り戻す人のことです。
また村上春樹の作品には、性的な描写が多く含まれます。そしてこの話では、そういった描写がいくつか見られます。途中、サイトーが暴力団に聞き込みをする際、動力団員はAVを見ながらサイトーへの質問に答えています。また、少佐が外部記憶装置の情報を閲覧するためにセーフハウスに戻った際には、麻薬でぶっとぶ仲である女友達の2人が登場します。
さしずめ「マネキドリ」とは、公安9課のことを指しているのでしょうか。
なお本編の途中に「お前達には給料分しっかり働いてもらう」という荒巻の台詞も登場します。かなり良い暮らしをしていると思われる彼らにはどれぐらいの給料が支払われているのでしょうか。
それにしても、タチコマかわいい。うちにも1台(1匹?)欲しいな。
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